角守先生追悼記(7)
今までの同窓会で、角守先生が話された内容を掲載します。同窓会の時には、いつも楽しいお話をしていただきました。
【第2回同窓会 1994年】
懐かしいことばっかりで何がなんだかわからないのですが、皆さんと初めてお会いしたのは中学1年であったと思い出し、その頃の色々なエピソードを思い出します。池に落ちたと言うような事件もあり非常に変わった人が多かったと思います。それだけに覇気があり、やる気があったなあと思います。変わった人がいないということは、全くいるかいないかわからず、つまらないものです。私もそのような変わった人たちのクラスを持ち楽しい経験をしました。
私は今、職をはなれて皆様には、うらやましがられるような自若の生活をしていますが、少しは暇かというとそうでもなくて、つまらない用事がたくさんありまして自分が病気になる暇がないほど忙しい毎日です。こんなでは落ちついてあの世にもいけない。(笑)今お墓の心配をしています。いかにして自分のお墓を手にいれるかに頭を悩ませています。笑い事じゃないですよ。皆さんもいつかはきっと考える時期が来ます。
当時の先生方も亡くなられた方が多く英語の和田先生、家庭科 の田中先生などなつかしい先生方のことも思い出します。皆さんもニックネームなどつけて困らせたこともあったと思います。思い出はつきず、たゆまなく湧いてきます。この会のこれからのご発展を期待いたします。
【第3回同窓会 1998年】
えーと久し振りに皆さんともお会いすることで僕も懐かしく思っています。ただ、皆さんからの手紙には私達も中年になりましたと書いてあったんですけども、そうすると僕なんか昔から老年だったんで、情けないって言っては何ですけど、やっぱりこれは自然の成り行きで、これはどうにもならないので、ただ皆さんが立派になられたという事が、こう、しみじみ分かって嬉しく思ってます。
あの頃を思い出せば、皆さんが中1に入ったばかりの頃のことが、やっぱり一番記憶に残ってまして、この子供達が果たして順調に卒業まで持つかなって思ってたのですけれども、みんな発育盛りで、元気一杯だったのでそんな事は問題にならないのですけども、とにかく、この学年は元気の目印でずっと過ごしたように記憶しています。時には失敗もありましたけど、何とか社会人になって、ここに顔を合わせられる事は感慨無量です。
私は、ひたすら年ばかり取っちゃって年を言うのも恥ずかしい様な気持がしておりますけど、ただ、平凡な毎日を送っていても、やはり何か感ずる事がある訳です。でも色々話も出るでしょうけども、私は何かやらなくてはいけないのだと、いたずらに年を取ってはならないのだと、それが私の若干一つの誓いみたいなものであります。このように、口では立派な事を言っていますが、なかなか出来ません。けれども今日はこれをやるんだと、どんな事をしても犠牲を払ってでもやってしまって、後で放り出しちゃう、そういうふうなやり方でやってるんですが、いつまで続くか、その先は分かりません。今日は気軽に忘年会を兼ねてと、そういうつもりで来ましたから、硬くならないで楽しくやりましょう。どうも。
2011年1月22日土曜日
角守先生追悼記(6)
角守先生追悼記(6)
角守先生のことで思い出したことは、美術のテストのことです。何か絵を描きなさいという問題だったと思います。私は、先生から習った遠近法を駆使して、お手本を写したような絵を描きました。良い点がつくかと思って答案をもらうと、愕然としました。100点満点で50点くらいの点数だったと思います。他の友人は80点とか90点がついていました。どう見ても、私の絵の方がうまく描けているのですが、なんで、こんな点数なんだ、と思いました。
今から考えると、私の描いた絵は教科書的で個性が無く、先生の目で見ると面白くなかったのだと思います。うまい、へたではない、自分で考えて、自分なりの工夫をして、人と違ったことをしなければダメだ、と言うお叱りの採点だったのだと思います。先生は、そういう見方をして教育していたのだと思います。
角守先生がタバコを吸っていたかどうか覚えていませんが、(追記:タバコを吸っていたそうです。後で大久保くんが教えてくれました)私は、亡くなってしまいましたが忌野清志郎さんの「僕の好きな先生」という歌を聞くと先生のことを思い出します。以下に歌詞を紹介します。
-------------------------------
<僕の好きな先生> 作詞:忌野清志郎
たばこを吸いながら いつでもつまらなそうに
たばこを吸いながら いつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの あの部屋にいつも一人
たばこを吸いながら キャンバスに向ってた
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら 困ったような顔して
遅刻の多いぼくを 口数も少なくしかるのさ
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら あの部屋にいつも一人
ぼくと同じなんだ 職員室がきらいなのさ
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら 劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん
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角守先生のことで思い出したことは、美術のテストのことです。何か絵を描きなさいという問題だったと思います。私は、先生から習った遠近法を駆使して、お手本を写したような絵を描きました。良い点がつくかと思って答案をもらうと、愕然としました。100点満点で50点くらいの点数だったと思います。他の友人は80点とか90点がついていました。どう見ても、私の絵の方がうまく描けているのですが、なんで、こんな点数なんだ、と思いました。
今から考えると、私の描いた絵は教科書的で個性が無く、先生の目で見ると面白くなかったのだと思います。うまい、へたではない、自分で考えて、自分なりの工夫をして、人と違ったことをしなければダメだ、と言うお叱りの採点だったのだと思います。先生は、そういう見方をして教育していたのだと思います。
角守先生がタバコを吸っていたかどうか覚えていませんが、(追記:タバコを吸っていたそうです。後で大久保くんが教えてくれました)私は、亡くなってしまいましたが忌野清志郎さんの「僕の好きな先生」という歌を聞くと先生のことを思い出します。以下に歌詞を紹介します。
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<僕の好きな先生> 作詞:忌野清志郎
たばこを吸いながら いつでもつまらなそうに
たばこを吸いながら いつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの あの部屋にいつも一人
たばこを吸いながら キャンバスに向ってた
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら 困ったような顔して
遅刻の多いぼくを 口数も少なくしかるのさ
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら あの部屋にいつも一人
ぼくと同じなんだ 職員室がきらいなのさ
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこを吸いながら 劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん
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角守先生追悼記(5)
角守先生追悼記(5)
次に、小島さんからお聞きしたエピソードをご紹介します。
【エピソード1】
角守先生がホームルームの時に話して下さいました。角守先生が、子守を頼まれてベビーカーで散歩していた時のことです。先生は、何か考えごとをしながら子守りをしていました。どこかで子どもの泣き声がする。うるさいなと思ってベビーカーを見るとそこにいたはずの子どもが乗っていない。後ろを振り返ったら、自分の子どもが道に落ちて泣いていたということがあったそうです。クラスのみんなで、あの角守先生が、子守りをしていたなんで、意外だね、と言っていました。
そのことを、先日、ご生花を頼んだ時に、次女の方にお話ししましたら、そのエピソードをご存知で、その時、ベビーカーから落ちた子どもがお嬢様だったそうです。お母様から、後から聞いたそうです。
【エピソード2】
先生のお子さんは二人ともお嬢さんですので、養子をご心配されていたんですね。悩んだあげく、「私個人としては娘たちに婿養子を迎えて欲しいのだけれども娘の賛同が得られない。娘をどう説得すれば良いか教えて欲しい」と教え子の私にアドバイスを求めて電話して来ました。結局、1時間も電話で話して、ようやく納得してもらいました。
【エピソード3】
中2の冬、私は、先生と何かの問題で対立して、お互いに譲り合わないで、雪の降る日一日中、ストーブもつけず窓を開けたまま授業を受けたことがありました。私も頑固ですが、先生も頑固だったんですね。
どのエピソードも、どんなことにも真剣に対応する角守先生らしいものですね。
次に、小島さんからお聞きしたエピソードをご紹介します。
【エピソード1】
角守先生がホームルームの時に話して下さいました。角守先生が、子守を頼まれてベビーカーで散歩していた時のことです。先生は、何か考えごとをしながら子守りをしていました。どこかで子どもの泣き声がする。うるさいなと思ってベビーカーを見るとそこにいたはずの子どもが乗っていない。後ろを振り返ったら、自分の子どもが道に落ちて泣いていたということがあったそうです。クラスのみんなで、あの角守先生が、子守りをしていたなんで、意外だね、と言っていました。
そのことを、先日、ご生花を頼んだ時に、次女の方にお話ししましたら、そのエピソードをご存知で、その時、ベビーカーから落ちた子どもがお嬢様だったそうです。お母様から、後から聞いたそうです。
【エピソード2】
先生のお子さんは二人ともお嬢さんですので、養子をご心配されていたんですね。悩んだあげく、「私個人としては娘たちに婿養子を迎えて欲しいのだけれども娘の賛同が得られない。娘をどう説得すれば良いか教えて欲しい」と教え子の私にアドバイスを求めて電話して来ました。結局、1時間も電話で話して、ようやく納得してもらいました。
【エピソード3】
中2の冬、私は、先生と何かの問題で対立して、お互いに譲り合わないで、雪の降る日一日中、ストーブもつけず窓を開けたまま授業を受けたことがありました。私も頑固ですが、先生も頑固だったんですね。
どのエピソードも、どんなことにも真剣に対応する角守先生らしいものですね。
角守先生追悼記(3)
角守先生追悼記(3)
焼香をすませたあとに、三人で通夜振るまいをいただきました。話をしていますと、隣に座っていた白髪の人が大道中学校の話をしていましたので、私たちは大道中学校の角守先生の教え子だと告げると、その人も、角守先生が田浦小学校の6年の担任になった時の教え子と言うことでした。私たちより20才くらいご年配の方でした。角守先生が美術の先生だったと言うと驚いて、「角守先生は確か理科系でしたよ。算数が得意で理路整然と授業をされていた先生が、美術を教えていたなんて信じられない」と言っていました。
角守先生は、横浜国立大学の前身の師範学校の出身だと言うことも教えてくれました。私たちがデンスケというあだ名をつけて気軽にお付き合いしていた角守先生は、実は大変な人だったと言うことがわかりました。その人によると、角守先生は、出世競争などで、人と争うことが嫌いだったということでした。「勤めていた学校の先生の間で争いごとか何かがあって、それに嫌気がさして、一戦を退く形で大道中学の美術の先生になったのではないか」と言っていました。
料理も少なくなってきて、まわりのお客さんも少なくなりましたので、お開きにしました。帰りは、衣笠駅から横須賀線に乗って逗子まで出て京急で六浦に出ました。小島さんと別れ、真塩くんと大道に向かって歩き出しました。途中で栄屋の店先を見ましたら、松本くんがいましたので寄って話をしました。角守先生が亡くなったことは、知らなかったと驚いていました。次の同窓会でも会えると思っていたのに残念だ、と言っていました。僕も真塩くんも大きくうなずきました。
焼香をすませたあとに、三人で通夜振るまいをいただきました。話をしていますと、隣に座っていた白髪の人が大道中学校の話をしていましたので、私たちは大道中学校の角守先生の教え子だと告げると、その人も、角守先生が田浦小学校の6年の担任になった時の教え子と言うことでした。私たちより20才くらいご年配の方でした。角守先生が美術の先生だったと言うと驚いて、「角守先生は確か理科系でしたよ。算数が得意で理路整然と授業をされていた先生が、美術を教えていたなんて信じられない」と言っていました。
角守先生は、横浜国立大学の前身の師範学校の出身だと言うことも教えてくれました。私たちがデンスケというあだ名をつけて気軽にお付き合いしていた角守先生は、実は大変な人だったと言うことがわかりました。その人によると、角守先生は、出世競争などで、人と争うことが嫌いだったということでした。「勤めていた学校の先生の間で争いごとか何かがあって、それに嫌気がさして、一戦を退く形で大道中学の美術の先生になったのではないか」と言っていました。
料理も少なくなってきて、まわりのお客さんも少なくなりましたので、お開きにしました。帰りは、衣笠駅から横須賀線に乗って逗子まで出て京急で六浦に出ました。小島さんと別れ、真塩くんと大道に向かって歩き出しました。途中で栄屋の店先を見ましたら、松本くんがいましたので寄って話をしました。角守先生が亡くなったことは、知らなかったと驚いていました。次の同窓会でも会えると思っていたのに残念だ、と言っていました。僕も真塩くんも大きくうなずきました。
角守先生追悼記(4)
角守先生追悼記(4)
北海道にいる大久保くんからメールが入りました。大道中学のホームページを見て、角守先生の思い出を送ってくれました。こんな話が書いてありました。
-----------------------------------
廣瀬君にも話した事があるかもしれませんが、中2の時、角守先生が担任でした。家庭訪問があり、当日は、昼過ぎに私の家に来ることになっておりました。当時、父親が事故療養中で家におり、母親は働きに出ておりました。夕方、当然もう家庭訪問は終わって、先生は帰っていると思いながら、先生が何を話されたか心配しながら玄関を開くと、なんと 顔を赤らめて、酒を飲んでいるデンスケが居るではないですか。その後の記憶は定かではないのですが、先生と話した記憶がないのできっとバツが悪くて、そそくさと帰られたのだと思います。
親父の話では、角守先生は陸軍士官学校出の中尉さんで戦時中の話で盛り上がったとの事でした。士官学校出という事は超エリートだったと、後で知りました。記憶力は全く衰えましたが、この件は あまりにもあり得ないことだったのではっきり覚えております。私の家の後、家庭訪問の予定だった人はどうなったのか知りたいものです。多分、南川地区のクラスメートでしょうが、誰かは覚えてません。私の父は、1925年(大正15年)生まれで、存命であれば今年満86歳ですから、角守先生より3歳位下だったのですね。その父も3年前に他界しました。
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大久保くんの話からも、角守先生は、エリートだったことがわかります。何を言っても怒らない好々爺のようにふるまっていた角守先生は、実は、何でも知り尽くしていて、それを外に出さない人だったのではないかと思いました。大久保くんの話と通夜振るまいの席で田浦小学校時代の教え子と言う人から聞いた話を合わせると、角守先生は、陸軍士官学校を出て中尉になり、戦争が終わってから師範学校で教師になる勉強をされ、田浦小学校の教師になり、その後で大道中学に赴任したことになります。
北海道にいる大久保くんからメールが入りました。大道中学のホームページを見て、角守先生の思い出を送ってくれました。こんな話が書いてありました。
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廣瀬君にも話した事があるかもしれませんが、中2の時、角守先生が担任でした。家庭訪問があり、当日は、昼過ぎに私の家に来ることになっておりました。当時、父親が事故療養中で家におり、母親は働きに出ておりました。夕方、当然もう家庭訪問は終わって、先生は帰っていると思いながら、先生が何を話されたか心配しながら玄関を開くと、なんと 顔を赤らめて、酒を飲んでいるデンスケが居るではないですか。その後の記憶は定かではないのですが、先生と話した記憶がないのできっとバツが悪くて、そそくさと帰られたのだと思います。
親父の話では、角守先生は陸軍士官学校出の中尉さんで戦時中の話で盛り上がったとの事でした。士官学校出という事は超エリートだったと、後で知りました。記憶力は全く衰えましたが、この件は あまりにもあり得ないことだったのではっきり覚えております。私の家の後、家庭訪問の予定だった人はどうなったのか知りたいものです。多分、南川地区のクラスメートでしょうが、誰かは覚えてません。私の父は、1925年(大正15年)生まれで、存命であれば今年満86歳ですから、角守先生より3歳位下だったのですね。その父も3年前に他界しました。
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大久保くんの話からも、角守先生は、エリートだったことがわかります。何を言っても怒らない好々爺のようにふるまっていた角守先生は、実は、何でも知り尽くしていて、それを外に出さない人だったのではないかと思いました。大久保くんの話と通夜振るまいの席で田浦小学校時代の教え子と言う人から聞いた話を合わせると、角守先生は、陸軍士官学校を出て中尉になり、戦争が終わってから師範学校で教師になる勉強をされ、田浦小学校の教師になり、その後で大道中学に赴任したことになります。
角守先生追悼記(2)
角守先生追悼記(2)
次を書く前に、伝えたいことがあります。実は、真塩くんと同じビルで仕事をしていることが昨年、分かったんです。前回の同窓会のあとの週明けに会社の電話に知らない番号から着信がありました。真塩くんは自信なさそうに、「もしかしたら、大道中学を卒業した廣瀬さんですか?」というような切り出しだったと思います。「もしかしたら、真塩くん?」ということで、すぐに真塩くんの執務室がある2階に行って会いました。
スーツ姿の真塩くんは、同窓会の時とは印象が全く違っていましたが、確かに、20年前の同窓会に若い奥さんを同伴してきた、あの真塩くんでした。私と真塩くんは、違う会社に勤めていたのですが、それぞれの会社が同じグループに統合され、現在の門前仲町のビルに集められたのでした。こんな所で再会できるとは夢にも思いませんでした。人生の妙を感じました。
ということで、休み明けに社内メールで、真塩くんに角守先生の訃報を連絡しました。すぐに、折り返し電話があり、一緒にお通夜に行こう、ということになりました。
お通夜の日、会社を早退して二人で会社を出ました。門前仲町から大門に出て都営浅草に乗り、品川で京急の快速に乗り換えました。運良くボックス席に座れて色々な話をしているうちに横須賀中央につきました。そこから、高校を卒業して何十年ぶりかで衣笠駅行きのバスに乗りました。衣笠駅は昔に比べて随分賑やかになっていました。三浦高校の方に向かってしばらく歩くと葬儀の会場の大明寺の看板が見えました。
ようやく着いたかと思ったら、長い参道がありその先に急な石段が立ちはだかっていました。二人で、ここで良いのかなあと言いながら登ってみると大明寺がありました。大明寺は建長五年(1253年)に建てられた日蓮宗のお寺で立派な山門がある大きなお寺でした。角守先生のお通夜の会場は左奥の建物でした。その前に置かれたストーブの前で小島さんに会いました。三人でまとまってお焼香をしました。飾られた写真は、大道中学の美術室にいた角守先生と少しも変わらない、若々しい写真でした。祭壇の左側に、大道中学校7期卒業生の生花の札がありました。
次を書く前に、伝えたいことがあります。実は、真塩くんと同じビルで仕事をしていることが昨年、分かったんです。前回の同窓会のあとの週明けに会社の電話に知らない番号から着信がありました。真塩くんは自信なさそうに、「もしかしたら、大道中学を卒業した廣瀬さんですか?」というような切り出しだったと思います。「もしかしたら、真塩くん?」ということで、すぐに真塩くんの執務室がある2階に行って会いました。
スーツ姿の真塩くんは、同窓会の時とは印象が全く違っていましたが、確かに、20年前の同窓会に若い奥さんを同伴してきた、あの真塩くんでした。私と真塩くんは、違う会社に勤めていたのですが、それぞれの会社が同じグループに統合され、現在の門前仲町のビルに集められたのでした。こんな所で再会できるとは夢にも思いませんでした。人生の妙を感じました。
ということで、休み明けに社内メールで、真塩くんに角守先生の訃報を連絡しました。すぐに、折り返し電話があり、一緒にお通夜に行こう、ということになりました。
お通夜の日、会社を早退して二人で会社を出ました。門前仲町から大門に出て都営浅草に乗り、品川で京急の快速に乗り換えました。運良くボックス席に座れて色々な話をしているうちに横須賀中央につきました。そこから、高校を卒業して何十年ぶりかで衣笠駅行きのバスに乗りました。衣笠駅は昔に比べて随分賑やかになっていました。三浦高校の方に向かってしばらく歩くと葬儀の会場の大明寺の看板が見えました。
ようやく着いたかと思ったら、長い参道がありその先に急な石段が立ちはだかっていました。二人で、ここで良いのかなあと言いながら登ってみると大明寺がありました。大明寺は建長五年(1253年)に建てられた日蓮宗のお寺で立派な山門がある大きなお寺でした。角守先生のお通夜の会場は左奥の建物でした。その前に置かれたストーブの前で小島さんに会いました。三人でまとまってお焼香をしました。飾られた写真は、大道中学の美術室にいた角守先生と少しも変わらない、若々しい写真でした。祭壇の左側に、大道中学校7期卒業生の生花の札がありました。
2011年1月21日金曜日
角守先生追悼記(1)
お正月気分がようやくぬけた平成23年1月16日の夕方の7時頃、福本くんから、突然、電話が入りました。角守先生がお亡くなりになったと言う訃報でした。昨年の同窓会での元気な印象が鮮明に残っていましたので、本当に信じられないことでした。福本くんからホームページで、大道中学の卒業生たちに、知らせて欲しいと言うお願いがありましたので、すぐに同窓会のホームページを更新して、アドレスを知っている人には、下記の訃報のメールを送りました。
------------------------------------
【訃報】
突然のご案内ですが、角守先生がお亡くなりになりました。
昨年の同窓会では、お元気でしたのに信じられません。
ご冥福をお祈り申し上げます。(1月16日 20時 福本君からの連絡)
下記の通り葬儀の日程を、掲示いたします。出来るだけ多くの方にご連絡下さい。
【日時】
お通夜 平成23年1月19日(水)19時〜20時
告別式 平成23年1月20日(木)10時〜11時
【場所】
大明寺
横須賀市衣笠栄町3-77 TEL 046-851-1760
ホームページ http://www.daimyoji-n.or.jp/
【行き方】
・JR線利用の方:衣笠駅下車徒歩10分
・京急線利用の方:横須賀中央駅下車 衣笠駅行きバスにて衣笠駅下車徒歩10分
------------------------------------
前回の同窓会の幹事の小島さんたちと相談して、私たち、7期同窓会で生花をお願いすることにしました。小島さんが角守先生宅に電話して、次女の方に、二万円の生花をお返しなしということでお願いしてもらいました。お金は、前回の同窓会の残金から出させていただきました。事後承諾になりますが、7期の皆様には、この紙面をもって幹事に代わりご報告いたします。
小島さんは、角守先生宅の次女の方から、こんな、お話を伺ったそうです。角守先生は、昨年の同窓会の時にも、右肺に水が溜 まってたけど薬を飲みながら元気に動いていたということでした。4年に一度の7期の同窓会楽しみにしていたそうで、家族の心配をよそに、事前に自分で横浜まで行って会場の下見もしていたそうです。
その後、入院もなく、1月10日の成人の日も家族みんなでスキヤキをしたりして楽しんでいたようです。しかし、急に16日の朝、起きて来ないので、家族が見に 行ったら、眠ったように亡くなっていたということでした。享年九十歳、本当に大往生だったんですね。馬場くんから、昨年の同窓会で撮影した写真を送っていただきましたので掲載します。(在りし日の角守先生 平成22年11月13日(土)横浜国際ホテルにて撮影)
------------------------------------
【訃報】
突然のご案内ですが、角守先生がお亡くなりになりました。
昨年の同窓会では、お元気でしたのに信じられません。
ご冥福をお祈り申し上げます。(1月16日 20時 福本君からの連絡)
下記の通り葬儀の日程を、掲示いたします。出来るだけ多くの方にご連絡下さい。
【日時】
お通夜 平成23年1月19日(水)19時〜20時
告別式 平成23年1月20日(木)10時〜11時
【場所】
大明寺
横須賀市衣笠栄町3-77 TEL 046-851-1760
ホームページ http://www.daimyoji-n.or.jp/
【行き方】
・JR線利用の方:衣笠駅下車徒歩10分
・京急線利用の方:横須賀中央駅下車 衣笠駅行きバスにて衣笠駅下車徒歩10分
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前回の同窓会の幹事の小島さんたちと相談して、私たち、7期同窓会で生花をお願いすることにしました。小島さんが角守先生宅に電話して、次女の方に、二万円の生花をお返しなしということでお願いしてもらいました。お金は、前回の同窓会の残金から出させていただきました。事後承諾になりますが、7期の皆様には、この紙面をもって幹事に代わりご報告いたします。
小島さんは、角守先生宅の次女の方から、こんな、お話を伺ったそうです。角守先生は、昨年の同窓会の時にも、右肺に水が溜 まってたけど薬を飲みながら元気に動いていたということでした。4年に一度の7期の同窓会楽しみにしていたそうで、家族の心配をよそに、事前に自分で横浜まで行って会場の下見もしていたそうです。
その後、入院もなく、1月10日の成人の日も家族みんなでスキヤキをしたりして楽しんでいたようです。しかし、急に16日の朝、起きて来ないので、家族が見に 行ったら、眠ったように亡くなっていたということでした。享年九十歳、本当に大往生だったんですね。馬場くんから、昨年の同窓会で撮影した写真を送っていただきましたので掲載します。(在りし日の角守先生 平成22年11月13日(土)横浜国際ホテルにて撮影)
2011年1月16日日曜日
【訃報】角守先生がお亡くなりになりました
【訃報】
突然のご案内ですが、角守先生がお亡くなりになりました。
昨年の同窓会では、お元気でしたのに信じられません。
ご冥福をお祈り申し上げます。(1月16日 20時 福本君からの連絡)
下記の通り葬儀の日程を、掲示いたします。出来るだけ多くの方にご連絡下さい。
【日時】
お通夜 平成23年1月19日(水)19時〜20時
告別式 平成23年1月20日(木)10時〜11時
【場所】
大明寺
横須賀市衣笠栄町3-77 TEL 046-851-1760
ホームページ http://www.daimyoji-n.or.jp/
【行き方】
・JR線利用の方:衣笠駅下車徒歩10分
・京急線利用の方 横須賀中央駅下車 衣笠駅行きバスにて衣笠駅下車徒歩10分
突然のご案内ですが、角守先生がお亡くなりになりました。
昨年の同窓会では、お元気でしたのに信じられません。
ご冥福をお祈り申し上げます。(1月16日 20時 福本君からの連絡)
下記の通り葬儀の日程を、掲示いたします。出来るだけ多くの方にご連絡下さい。
【日時】
お通夜 平成23年1月19日(水)19時〜20時
告別式 平成23年1月20日(木)10時〜11時
【場所】
大明寺
横須賀市衣笠栄町3-77 TEL 046-851-1760
ホームページ http://www.daimyoji-n.or.jp/
【行き方】
・JR線利用の方:衣笠駅下車徒歩10分
・京急線利用の方 横須賀中央駅下車 衣笠駅行きバスにて衣笠駅下車徒歩10分
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